前回は、使命は最初からきれいな言葉としてあるものではなく、長い時間、自分の中に残り続けている「消えない情熱」に目を向けるところから始まる、ということを書きました。
今回は、その情熱や役割が、現実の中でどのように見えにくくなるのかについて書いてみたいと思います。
私が特に反応してしまうのは、その人が何かをできていない時ではありません。
むしろ、立派にできている。
周囲から見ても、十分に評価されている。
ある人から見れば、それは正解に見える。
それでも、どこか気になることがあります。
本当に、それがしたいことなのだろうか。
その人の優れたところが、大きく失われていないだろうか。
本当はもっと、その人らしい第三の表現の仕方があるのではないだろうか。
そして、その人の優れたところが十分に生かされないことは、本人にとってだけでなく、
社会にとっても小さくない損失なのではないか。
そんなふうに感じることがあります。
できる人ほど、平均点に置きにいけてしまう
できる人ほど、周囲の期待に応えることができます。
求められた役割を果たす。
期待された水準に合わせる。
失敗しない形に整える。
誰から見ても大きく間違っていない選択をする。
それ自体は、決して悪いことではありません。
むしろ、多くの場合は評価されます。
責任を果たしているようにも見えます。
周囲から見れば、十分にうまくいっているように見えることもあります。
ただ、その中で少しずつ、自分本来の優れたところや表現から離れてしまうことがあります。
うまくできている。
しかし、本人の優れたところが十分に出ていない。
正解には近い。
しかし、その人にしかできない形からは遠ざかっている。
平均点に置きにいくように、きれいに整っている。
しかし、その人にしかない響きや、独自の切り口や、自然に人を惹きつける力が、奥に隠れてしまっている。
そういう場面を見ると、私は反応してしまいます。
借り物の正解でも、ただの自己流でもない
人が、自分の優れたところを失わずに、社会の中で表現していくこと。
借り物の正解でも、ただの自己流でもなく、その人自身の感覚や願いから、第三の表現を見つけていくこと。
そこに、私はずっと関心があるのだと思います。
第三の表現とは、周囲が期待する正解でも、独りよがりな自己表現でもなく、その人の優れたところが、社会に届く形で自然に立ち上がってくる表現のことです。
これは、簡単なことではありません。
周囲が期待する正解に合わせた方が、説明しやすいことがあります。
すでにある型に乗った方が、評価されやすいこともあります。
一方で、ただ自分のやりたいようにやればよい、という話でもありません。
大切なのは、その人の優れたところが、社会に届く形になっているかどうかです。
自分らしさを守るだけではなく、
誰かに届く価値として形になっているか。
社会の中で、必要としている人に届いているか。
そこに、第三の表現を考える意味があるのだと思います。
優れたところが生かされないことは、社会にとっても損失
になる
その人の優れたところが生かされないことは、本人だけの問題ではありません。
本来なら、その人だからこそ届けられる言葉がある。
その人だからこそ見える課題がある。
その人だからこそ支えられる人がいる。
その人だからこそ生み出せる価値がある。
それが、平均点に置きにいくことで奥に隠れてしまうとしたら、
それは社会にとっても小さくない損失なのではないかと思います。
もちろん、誰も悪いわけではありません。
人は、期待に応えようとします。
役割を果たそうとします。
周囲に迷惑をかけないように、整えようとします。
ただ、その中で本来の優れたところが失われていくなら、
一度立ち止まって見直す必要があるのかもしれません。
本当に、それがしたいことなのか。
その人の優れたところは、十分に生かされているのか。
もっと、その人らしい第三の表現の仕方があるのではないか。
そう問い直すことは、本人のためだけではなく、社会のためでもあるのだと思います。
最後に
今の自分が選んでいる道に対して、どこかで小さな違和感を覚えていることはないでしょうか。
うまくできている。
評価もされている。
しかし、本当にしたいこととは少し違う気がする。
本来の優れたところを、どこかに置いてきている気がする。
自分にしかない第三の表現の仕方があるはずなのに、平均点に置きにいっている気がする。
もしそう感じることがあるなら、それもまた大切なサインかもしれません。
使命とは、立派な正解を選ぶことではなく、その人の優れたところを失わずに、社会の中で表現していくことなのかもしれません。
そしてそれは、一人では見えにくいことがあります。
だからこそ、対話が必要になるのだと思います。
